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前松前藩領時代~昭和21年(1946年)
年号 | 年月日 | 内容 |
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前松前藩領時代 | 文祿2年(1593) | 蛎崎慶広、豊臣秀吉からエゾ地支配の朱印状を受ける |
(1593~1806) | 慶長4年(1599) | 蛎崎慶広、松前氏と改める |
慶長7年(1602) | マテオ・リッチの世界地図に「亜馬是里」あらわれる | |
慶長9年(1604) | 松前氏、徳川家康からエゾ地支配の黒印制書を受ける(松前藩の成立) | |
貞享2年(1685) | 松前藩、ソウヤ場所を開く | |
寛延3年(1750) | 村山伝兵衛、ソウヤ場所を請負う(6年間) | |
宝暦6年(1756) | 浜屋与三右衛門ら3人、ソウヤ場所を請負う(5年間) | |
宝暦9年(1759) | 東エゾ地ノツシャプのアイヌ人、西エゾ地ソウヤのアイヌ人を攻めて多数を殺傷 | |
安永4年(1775) | ソウヤ場所をP年間の約束で飛騨屋久兵衛が請負う(着業後の8年間は村山伝兵衛が下請け) | |
寛政元年(1789) | クナシリ・メナシ地方のアイヌ人、飛騨屋の虐使に反乱、和人余人を殺傷(寛政の乱) | |
松前藩、飛騨屋の請負場所を没収し、村山伝兵衛に差配を命じる | ||
寛政2年(1790) | ソウヤ場所からカラフト場所独立、また、シャリ場所を分設し村山伝兵衛に差配させる | |
寛政8年(1796) | 村山伝兵衛の場所請負没収、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、小山屋権兵衛の請負となる | |
寛政9年(1797) | 小山屋にかわり板垣豊四郎、3場所を請負う(3年間) | |
寛政10年(1798) | 谷口青山の「自高島至舎利沿岸二十三図」の第22図にアバシリ沿岸及び番屋のスケッチが描かれる | |
寛政12年(1800) | ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、松前藩の直営とし仕入れは柴屋長太夫に任せる | |
享和元年(1801) | エゾ地御用掛松平信濃守忠明一行、西エゾ地北海岸巡検途上アバシリに立ち寄る(松前藩足軽佐藤与惣次アバシリ駐在) この年、シラヌカ駐在の八王子同心、シベチャ~シャリ間の山道を開さく |
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享和2年(1802) | 幕府、箱舘に蝦夷奉行をおく(5月箱舘奉行と改める) 幕府、東蝦夷地を所領とする |
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前幕府直轄時代 (1807~1820) |
文化4年(1807) | 幕府、西蝦夷地をも収め全島直轄領とする 箱舘奉行を改め、福山に松前奉行をおく この年、津軽藩士ソウヤ詰230人、シャリ詰余人水腫病にかかり翌年にかけ病死者多数 |
文化5年(1808) | 藤野喜兵衛・坪田佐平・西川准兵衛の3名共同でソウヤ・シャリ両場所を請負う | |
文化9年(1812) | 藤野喜兵衛、アバシリ川河口右岸に弁天社を創祀(ご神体は弁財天、のち町民が譲受けて厳島神社となる) | |
文化12年(1815) | ソウヤ・シャリ両場所、藤野喜兵衛が一手請負う | |
文化14年(1817) | 藤野喜兵衛、クナシリ場所を請負う | |
文政元年(1818) | 藤野喜兵衛、シャリのアイヌ人数十戸をクナシリ島へ強制移送(以後強制移送つづく) | |
後松前藩領時代 | 文政4年(1821) | 幕府、東・西蝦夷地を松前藩に返領 |
(1821~1854) | 天保3年(1832) | 飢饉はじまる(天保の大飢饉、8年まで |
天保4年(1833) | 藤野家、箱舘に支店をおき柏屋猪兵衛と称する | |
安政元年(1854) | 幕府、箱舘奉行をおく | |
後幕府直轄時代 | 安政2年(1855) | 幕府、松前藩からオトベ・キコナイを除く東・西蝦夷地を返領させ、箱舘奉行に支配させる |
(1855~1866) | 安政4年(1857) | 箱舘奉行堀織部正利煕北海岸を巡検、従者玉虫左太夫『入北記』にアバシリ・シャリ地方の役アイヌ人名など記す |
安政5年(1858) | 藤野家、本店を箱舘に移し福山(松前)を支店とする(福山の猪兵衛を伊兵衛と改める) 松浦武四郎、アバシリ川をさかのぼり『戊午日誌』(西部安婆之利日誌)を著わす この年、深瀬洋春西蝦夷地のシャリ地方にかけて種痘を施す |
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安政6年(1859) | アバシリ在勤幕吏、同心神野勝五郎から細野五左衛門にかわる 幕府、蝦夷地を奥羽6大藩に分領(アバシリ・サンナイは幕府直轄領、シャリ・モンベツは会津藩領、ソウヤ・リシリ・レブンは秋田藩領) |
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万延元年(1860) | 箱舘奉行支配組頭河津三郎太郎、アバシリ地方の幕・藩それぞれの領地に境界を画定 | |
文久2年(1862) | 会津藩、シャリ・モンベツにおける藤野家の場所請負を罷免(アバシリは幕領のため存続)。また、儒者南摩綱紀、同藩の代官として6年間シャリ在勤 | |
元治元年(1864) | 藤野家、アバシリ川河口右岸に稲荷社を創祀(明治28年オショップに移築) | |
慶応3年(1867) | 王政復古の大号令、天皇親政の御代となる | |
慶応4年(1868) | 清水谷公考ら蝦夷地鎮撫建議書提出 | |
慶応4年(1868) | 朝廷、蝦夷地開拓の可否を下問 | |
慶応4年(1868) | 箱舘裁判所設置決まる(閏4月24日箱舘府と改める) | |
慶応4年(1868) | 箱舘裁判所開庁 | |
慶応4年(1868) | 江戸を東京と改める | |
明治元年(1868) | 1868年9月8日 | 明治と改元 |
1868. 9 | 箱舘府属官平井幸一郎、アバシリに来て新政を布達、アバシリ場所は新政府が管理 | |
1868年10月10日 | 箱舘戦争起きる | |
明治2年(1869) | 1869年 | 東京に開拓使を設置蝦夷地を北海道と改め、北見国など11国、網走郡など86郡の行政区域名を制定 |
1869年9月1日 | 新政府、北見国を分領(網走・斜里郡は名古屋藩領、網尻・常呂郡は広島藩領、宗谷・枝幸・礼文の各郡は金沢藩領、明治3年8月まで) | |
1869年9月30日 | 箱舘を函館に改める | |
1869年1月 | 場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める | |
明治3年(1870) | 1870年7月22日 | 開拓使、藤野喜兵衛の漁場持引上げを通告 |
明治4年(1871) | 1871年4月4日 | 戸籍法制定(明治5年施行) |
1871年4月4日 | 札幌に開拓使庁をおき、函館・根室の開拓出張所を出張開拓使庁と改める | |
1871年7月15日 | 開拓判官松本十郎、はじめて北見国内を巡検 | |
1871年7月14日 | 廃藩置県の詔勅発布 | |
1871年12月19日 | 藤野伊兵衛、北見国東部4郡及び根室国標津・目梨両郡の漁場持を命じられる | |
1871年12月19日 | この年、藤野伊兵衛、アバシリ川にはじめて板橋を架ける | |
1871年12月 | 全道11国及び樺太の行政区画を6部に分け、北見国東部4郡は根室、北部4郡は宗谷の各使庁に属する | |
明治5年(1872) | 1872年1月 | 開拓判官松本十郎、北見国東部4郡の本局に網走郡を上申 |
1872年3月 | 開拓使庁、北見国東部4郡の村名を定める(網走郡はトヲフツ・ナヨロ・モコト・ニクリバケ・イチャニ・アバシリ・モヨロ・ノトロの8村、のち網走市の開基となる) | |
1872年4月 |
開拓使庁、網走・網尻両郡の戸長として藤野漁場支配人佐々木(松野)三右衛門に兼職を命じる(事務処理は藤野分店帳場内、5月戸籍調査に着手) | |
1872年9月14日 | 出張開拓使庁を開拓使根室支庁と改める | |
1872年9月 | アバシリ村官有地に官立病院仮開院(6年8月新築、10年3月閉院、7月再開) | |
1872年12月3日 | 新暦採用、この日を6年1月1日とする | |
明治6年(1873) | 1873年7月20日 | アバシリ村に開拓使根室支庁網走出張所をおき、紋別・常呂・網走・斜里の各郡及び釧路国網尻郡を所轄、紋別郡に分局をおく(紋別分局は7年出張所と改め8年廃止) |
明治7年(1874) | 1874年9月 | モコト村から釧路国境ペケルチシに至る官設道路を開さく |
1874年11月6日 | 藤野伊兵衛持船長者丸、ウトロ海域で遭難 | |
明治8年(1875) | 1875年5月24日 | 網走郡内の8村に漢字名をあてる(アバシリ村は網走村となる) |
1875年7月1日 | 根室支庁網走出張所を廃し、同庁民事課派出所をおく(12月網走分署と改める) | |
1875年9月1日 | 北見国アイヌ人に対するオムシャ全廃 | |
1875年1月 | 藤野伊兵衛、網走川の板橋架け替え | |
明治9年(1876) | 1876年1月6日 | 藤野分店に付属して郵便取扱所開設 |
1876年4月 | 天塩国苫前から北見国宗谷・枝幸・網走各村をへて根室に至る郵便路線開通 | |
1876年7月19日 | アイヌ人に姓氏を用いさせる | |
1876年9月8日 | 全道に大・小区を定め、北見国東部4郡は27大区、網走郡は2小区となる | |
1876年10月10日 | 全道一斉に漁場持制を廃止、藤野伊兵衛、北見国漁場の放棄を声明 | |
明治10年(1877) | 1877年3月 | 網走分署を支庁直轄とする |
1877年4月 | 斜里・網走・紋別の各村要衝地に浦役場開設(網走村は藤野分店内におく) | |
明治11年(1878) | 1878年3月 | 戸長(総代)事務扱所を区務所と改める |
1878年5月1日 | 皆月善六、知床山の硫黄採掘に着手 | |
1878年 | この年、藤野伊兵衛北見国漁場を再開 | |
明治12年(1879) | 1879年7月15日 | 全道の大・小区制廃止 |
1879 | この年、瀬川惣之助はじめて網走村で越冬(自由移住者第1号) | |
明治13年(1880) | 1880年7月15日 | 網走村に開拓使網走・斜里・常呂・紋別郡役所(網走外三郡役所)開庁、郡長岸本円蔵就任、網走・常呂両郡の戸長事務を兼掌(斜里郡戸長川端又三郎・紋別郡戸長竜田治三郎) |
1880年9月24日 | 知床硫黄山大爆発、硫黄噴出3日間におよぶ | |
1880年 | この年、藤野分店内に日用品・呉服類の売場を開設(21年に白木屋と改める) | |
明治14年(1881) | 1881年7月8日 | 釧路国網尻郡(津別・美幌)を北見国網走郡に編入 |
1881年11月15日 | 網走村網走川河口部右岸に市街地を区画して「北見町」と命名、宅地の払い下げ開始 | |
明治15年(1882) | 1882年2月8日 | 開拓使を廃し、函館・札幌・根室の3県をおく |
1882年4月1日 | 根室警察署網走巡査派出所設置 | |
1882年 | この年、最寄村で町田孫六が野菜栽培による営農を試み成功する。また、猪股周作が果樹栽培を試みる(21年に結実) | |
明治16年(1883) | 1883年2月19日 | 根室警察署網走分署に昇格(19年庁舎新築) |
1883年6月 | 網走郡及び8村総代人の選挙執行 | |
1883年 | この年網走郵便局、北見町北通2丁目に独立局舎新築(23年3等郵便局に昇格) | |
明治17年(1884) | 1884年9月25日 | 網走簡易小学校、民家の一室を借り上げて創立式挙行(18年北見町中通4丁目に校舎新築) |
1884年 | この年、藤野家の北海道営業名儀(喜兵衛・伊兵衛)を廃して財産名儀を本家四郎兵衛に改め、函館・福山を漁場仕込本店、根室・網走を支店とする改革を斷行(これまでの又十の目印を廃止) また、宮部金吾、クルマトマナイにうるし樹林発見(安政6年前後に会津から移植されたものと推定) |
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明治18年(1885) | 1885年7月 | 北見町に私設消防組創設 |
1885年9月 | 網走外三郡役所、北見町南通3丁目に庁舎新築 | |
明治19年(1886) | 1886年1月26日 | 3県を廃して北海道庁設置、函舘・根室に支庁をおき、網走外三郡役所は従来どおり4郡を管轄 |
1886年12月28日 | 函館・根室両支庁を廃し、郡・区長は道庁長官の直属とし警察署長兼務 | |
1886年12月 | 北見町南通3丁目に法龍寺開山 | |
1886年 | この年、網走川沿いに点住するアイヌ人を海寄りの1区画に転住させる(のち「アイヌ地」と呼ばれる) | |
明治20年(1887) | 1887年1月 | 網走警察署設置、署長は郡長が兼職 |
1887年 | この年、英国人技師スコット・メーク、全道の要港調査に着手。また、釧路監獄署により釧路~網走間の道路開さくに着手 | |
明治21年(1888) | 1888年3月 | 網走外三郡役所内に道庁林務課網走派出所設置 |
1888年4月 |
網走村ニクル(桂町)に墓地を区画 | |
1888年6月11日 | スコット・メーク北見国入りし網走港修築を調査 | |
明治22年(1889) | 1889年5月14日 | 網走・常呂二郡水産漁業組合創立 |
1889年8月1日 | 網走外三郡役所内に網走観測所仮設し気象観測開始〔23年網走村ニクル(台町)に庁舎新築移転、2等測候所となる〕 | |
1889年8月9日 | 知床硫黄山爆発して硫黄再噴出 | |
1889年 | この年、北見国の植民地選定に着手。 | |
1889年 | また、藤野家、汽船芳野丸を購入し函館・根室・網走間の定期航海を行う | |
明治23年(1890) | 1890年4月27日 | 最寄村ベナタンナイに釧路監獄署(7月集治監に復称)囚徒外役所の造営に着手(移送囚徒、同年末には1,000名に達する) |
1890年10月30日 | 教育勅語発布 | |
1890年11月 | 硫黄山~網走間の道路完成(「釧路道路」と呼ばれる) | |
1890年12月 | 山田慎、網走村大曲に燐寸製軸工場建設(24年囚徒を使役して操業開始) | |
1890年12月 | 釧路から標茶経由網走まで電信回線架設(24年電信業務開始) | |
1890年 | この年、網走郡内で水稲試作 | |
明治24年(1891) | 1891年4月 | 網走分監による網走~上川間の道路開さく着工(同年末完成「中央道路」と呼ばれる) |
1891年5月 | 山田製軸工場内に日本聖公会講義所開設 | |
1891年6月27日 | 釧路集治監網走分監と改め、8月北海道集治監網走分監となる(初代分監長有馬四郎助) | |
明治25年(1892) | 1892年3月 | 中央道路沿いの越歳(1号)・端野・相内・留辺蘂・上佐呂間・野上・下白滝・白滝に駅逓開設 |
明治26年(1893) | 1893年7月 | 網走村オショップ(鱒浦)に藤野家が牧場開設 |
1893年11月 |
能取村ノトロ(美岬)に原鉄二郎が牧場開設 | |
1893年 | この年、川端勝太郎、最寄村に石油鉱採掘許可(未着手のまま期限切れ) | |
明治27年(1894) | 1894年6月 | 北見町に北見農会設立 |
1894年8月1日 | 日清戦争勃発(28年本間長之丈ほか出征) | |
1894年1月 | 網走遊廓公認 | |
明治28年(1895) | 1895年4月 | 網走尋常小学校に高等科併置 |
1895年5月 | ニクル(桂町)に火葬場設置 | |
明治29年(1896) | 1896年5月13日 | 北海道鉄道敷設法発布、厚岸~網走線、名寄~網走線など決定 |
1896年6月15日 | 広井勇、網走港修築調査に着手(11月完了し「網走築港調査図」作成) | |
1896年10月4日 | 神田芳太郎『北見事情』発刊 | |
1896 | この年、網走郵便局で小包郵便取扱開始 | |
1896 | 寺永法専師、自坊にて免囚保護事業を始める(40年寺永慈恵院と改める) | |
1896 | 吉田甚松、最寄村レブンシリ(嘉多山)で水稲の試作に成功 | |
明治30年(1897) | 1897年1月11日 | 網走尋常小学校大曲分校開校 |
1897年2月 | 札幌~網走間に電信回線架設 | |
1897年4月 | 網走税務署、民家を借りあげて開庁、4郡を管轄 | |
1897年5月2日 | 北光社移民団網走港に上陸、野付牛村の北光社農場へ向かう | |
1897年5月31日 | 北海道集治監網走分監閉鎖 | |
1897年6月2日 | 屯田兵の第1陣、船便で網走港に到着、入地する野付牛村に向かう(31年まで5便入港、597戸・1,248人) | |
1897年11月5日 | 郡役所を廃し、北海道庁網走支庁など19支庁設置、北見町ほか8村の戸長事務兼掌継続(12月初代網走支庁長岡次郎太郎着任) | |
明治31年(1898) | 1898年3月 | 根室銀行網走支店開設 |
1898年8月 | 北海道集治監網走分監再開(10月廃監) | |
1898年9月8日 | 6日から全道に豪雨、網走郡で141ミリに達し網走支庁管内で浸水家屋1,594戸、流失潰屋215戸、溺死23人、畑被害1,700町歩など被害甚大 | |
1898年12月 | 貴田国平、単身上京して網走港修築を国会に請願 | |
明治32年(1899) | 1899年2月 | 根室地方裁判所登記所を廃し、北見登記所は同北見出張所と改める |
1899年3月2日 | 北海道旧土人保護法公布(4月施行) | |
1899年4月 | 小樽~網走間道庁補助定期航路開設 | |
1899年7月14日 | 広井勇「網走港湾設計報文(改補)」上申 | |
1899年10月6日 | 網走築港期成会(会長高田源蔵)を結成、築港・鉄道の速成を上京運動 | |
1899年12月28日 | 貴田国平『網走港』発刊 | |
1899年 | この年、吉田登一が北見町南通で写真館開業 | |
明治33年(1900) | 1900年1月11日 | 網走築港期成会、広井勇著『網走港修築意見書』発刊 |
1900年7月 | 網走支庁から戸長事務を分離して北見町外八ヶ村戸長役場開設(8月佐藤信吉戸長に就任) | |
1900年1月 | 網走、常呂、紋別各郡連合して北見鉄道速成期成会結成、北見町に本部をおいて上京運動 | |
1900年1月 | 網走外三郡農会設立 | |
1900年1月 | 網走~根室間道庁命令定期航路開設 | |
1900年11月 | 網走外三郡物産品評会、北見町で開催 | |
1900年12月 | 北海道拓殖10年計画国会で可決(34年4月施行、網走・常呂・湧別各河川の治水事業費は計上されたが築港事業費は削除) | |
明治34年(1901) | 1901年2月1日 | 根室区裁判所北見裁判所を網走区裁判所と改める(紋別はその出張所となる) |
1901年4月1日 | 大曲尋常小学校開校 | |
1901年4月 | 藤野支店の別棟座敷(迎賓館)を戸長役場として使用(35年町公会堂となる) | |
1901年8月10日 | 第1回道会議員選挙執行、網走支庁管内で高野留五郎・原鉄二郎が当選 | |
1901年 | このころ、貴田国平網走活版所開業 | |
1901年9月9日 | 3日から長雨、網走郡で109ミリ、網走支庁管内では2,472町歩浸水流失など被害甚大 | |
1901年10月1日 | 北海道集治監網走分監再開 | |
1901年1月 | 小樽~網走間の道庁補助定期航路を稚内~網走間に分割 | |
1901年 | この年、道庁国費工事課網走派出所、網走支庁舎内に開設(39年網走土木派出所) | |
明治35年(1902) | 1902年4月1日 | 全道62町村にはじめて2級町村制施行、北見町・網走村・勇仁村を網走町、能取村・最寄村は能取村、藻琴村・娜寄村・涛沸村・新栗履村を藻琴村とし、旧町村名は大字として残す。また、1町2村が設立した組合役場(網走町外二ヶ村組合役場)を大字北見町におき、初代組合長に佐藤信吉任命 |
1902年4月1日 | 貴田国平『網走週報』創刊(38『北見新聞』と改題) | |
1902年4月28日 | 網走産牛馬組合設置認可(38年網走外三郡産牛馬組合と改める) | |
1902年5月27日 | 第1回町村会議員選挙 | |
1902年6月 | 組合役場、大字北見町南通3丁目に新築 | |
1902年 | この年、シレト岬を迂回するポンモイ道路開さく | |
明治36年(1903) | 1903年1月4日 | 前日からの暴風、北見国沿岸高波となり被害甚大 |
1903年4月1日 | 網走町外二ヶ村組合長に金田虎吉任命 | |
1903年9月 | 網走支庁内に林務課員出張所開設(41年網走営林区署) | |
明治37年(1904) | 1904年2月9日 | 日露戦争勃発 |
1904年2月23日 | 網走監獄の囚徒16名脱獄し、うち2名行方不明 | |
1904年3月 | 網走・根室・釧路・十勝各支庁管内から柳田藤吉衆議院議員に当選 | |
明治38年(1905) | 1905年5月17日 | 藻琴村大字涛沸の山田製軸分工場全焼、損害額3万円 |
1905年9月 | 日露戦争終結(網走町ほか2村出身戦没者8名) | |
1905年12月 | 高田源蔵、発音器を初試聴(網走町に蓄音機お目見え) | |
明治39年(1906) | 1906年1月21日 | 私設網走図書従覧所開設(40年日露戦役紀念私立網走図書館と改め、41年独立館舎新築) |
1906年 | 山田製軸工場、山県勇三郎に譲渡 | |
1906年7月13日 | 北海道庁『北海道流氷調査報文』発刊 | |
明治40年(1907) | 1907年6月 | 網走町外二ヶ村組合長佐藤信吉再任 |
明治41年(1908) | 1908年4月14日 | 北海道国有未開地処分法改正公布(7月施行) |
1908年8月14日 | ご神体を広島県厳島神社から分霊してニクル(桂町)に網走神社創祀 | |
1908年 | この年10月、大字網走村クルマトマナイに小亀利三郎、11月大字最寄村ピットカリに本間寅作が製材工場 創業 |
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明治42年(1909) | 1909年4月15日 | 網走監獄全焼(45年復旧) |
1909年 | この年、大字網走村大曲~呼人間の湖岸道路開さく工事に着手。また、網走町に網走支庁管内初の自転車3台お目見え | |
明治43年(1910) | 1910年3月10日 | 北海道15年経営案(第1期拓殖計画)議決、網走港288万円で修築決定、町中提灯行列など祝賀行事 |
1910年4月 | 稲垣吉慎、大字北見町に私立北見女学校創立(44年桂ヶ岡に校舎新築、45年幼稚園併設) | |
1910年4月 | 志賀直哉、雑誌『白樺』創刊号に「網走まで」発表 | |
1910年 | この年、松崎豪『北見実業新聞』創刊(のち『日東新報』と改題)。また、クルマトマナイの造園工事で応永の年号のある板碑発見。白井仁太郎、醸造店創業 | |
明治44年(1911) | 1911年9月 | 池田~野付牛間に鉄道開通 |
明治45年(1912) | 1911年4月 | 貴田国平『北見の富源』発刊 |
1911年5月16日 | 網走漁業会設立 | |
大正元年(1912) | 1912年7月30日 | 大正と改元 |
1912年10月5日 | 網走~野付牛間に鉄道開通し、網走本線(網走~十勝池田間)全通 | |
1912年10月15日 | 菊池純二郎『北見繁栄要覧』発刊 | |
1912年10月23日 | 大字北見町中通4丁目で大火、32戸焼失 | |
1912年11月 | 網走支庁管内のハッカ市場混乱(サミエル事件) | |
1912年12月 | 大字北見町に演芸館開業、野坂勇吉経営 | |
大正2年(1913) | 1913年5月 | 保原元二「網走港修築補測調査報文」提出(3年から事前調査に着手) |
1913年8月10日 | 第5期道会議員選挙、松崎豪当選 | |
1913年8月16日 | 藤野家で網走百年祭を挙行 | |
1913年9月3日 | 米村喜男衛来住、理髪業のかたわら網走地方の考古学的調査・研究はじめる | |
1913年12月 | 大場篤三郎『北見発達史』発刊 | |
1913年12月 | 電話交換業務開始 | |
1913年 | この年、全道的に低温で推移、秋作物は凶作となる | |
大正3年(1914) | 1914年4月 | 作家長田幹彦来遊(雑誌『文芸復興』に「網走港」発表) |
1914年6月26日 | 東条貞『網走築港調査書』発刊 | |
1914年7月15日 | 大字北見町で北見木材大会開催(網走川の木材流送及び網走港からの積出し全盛) | |
1914年7月15日 | 都香北洲『北見と人物』発刊 | |
1914年7月28日 | 第1次世界大戦(欧州戦争)勃発(8月日本参戦) | |
大正4年(1915) | 1915年3月 | 木下詳『北見日日新聞』創刊 |
1915年4月1日 | 能取村・藻琴村を廃して網走町に併合、1級町村制施行(旧町村の大字名は存続) | |
1915年5月31日 | 2級町会議員選挙、6月1日1級町会議員選挙執行 | |
1915年6月 | 東洋捕鯨会社、大字最寄村タンネシラリ(二ツ岩裏)に網走事業場開設、オホーツク沿岸海域の捕鯨はじまる(8年まで) | |
1915年7月23日 | 網走町長選挙で佐藤信吉当選、29日初代町長に就任 | |
1915年9月 | 網走電気株式会社設立(5年1月試験点灯、6月営業送電) | |
1915年 | この年、沿岸漁業に動力船導入が試みられる | |
大正5年(1916) | 1916年1月 | 網走町部長規則制定(昭和6年行政区及び区長制度に改める) |
1916年3月 | 藤野家全事業閉止 | |
1916年6月 | 紋別郡鴻之舞で金鉱発見、住友家が買収着業(以降網走支庁管内で有望金鉱発見相次ぐ) | |
1916年7月 | 「アイヌ地」先海浜に海水浴場開設 | |
1916年8月10日 | 第6期道会議員選挙、野坂良吉当選 | |
1916年9月21日 | 網走郡外三郡物産共進会開催 | |
191年1月 | 網走港修築計画更訂、避難港に縮小 | |
1916年12月 | 北見国沿岸一帯、高波のため漁業など被害甚大 | |
1916年 | この年、好景気、青エンドウなど値上がりして成金続出 | |
大正6年(1917) | 1917年3月 | 網走魚菜市場開設 |
1917年3月 | 田辺村次、海産物仲買商開業 | |
1917年6月12日 | 東洋燐寸大曲製軸工場火災、損害額2万円 | |
1917年7月 | 大字網走村オショツプ(鱒浦)にカニ缶詰工場創業(7年網走缶詰会社となる) | |
1917年10月1日 | 能取岬灯台完成し初照射 | |
大正7年(1918) | 1918年4月 | 網走聖ペテロ教会附属網走愛香幼稚園が開園(初代園長林兼治) |
1918年7月15日 | 釧路地方裁判所網走支部開庁 | |
1918年1月 | 下旬から11月にかけて流行性感冒(スペイン風邪)全国各地で猛威、死亡者多数 | |
1918年 | この年、大字北見町に支庁管内初の自動車(米国製T型フォード)お目見え | |
1918年 | 米村喜男衛、網走史辿会及び鈴蘭童話会結成 | |
大正8年(1919) | 1919年2月20日 | 林好次、食品雑貨商開業 |
1919年3月18日 | 網走港修築予算確定、21日奉告祭、22日町中提灯行列で祝賀 | |
1919年4月 | 築港事務所開設(9年所長平尾俊雄着任) | |
1919年5月 | 大字網走村ニクル(駒場)に国有種牡馬派遣種付所開設 | |
1919年8月13日 | 網走港修築工事起工式及び祝賀会挙行 | |
1919年9月1日 | 網走町長に中野協蔵当選 | |
1919年11月11日 | 網走町農業会設立 | |
1919年12月 | 網走尋常高等小学校の男子生徒を分離して新校舎建設(男子校)、既存校は女子尋常高等小学校と改める | |
大正9年(1920) | 1920年8月10日 | 第7期道会議員選挙、貴田国平・野坂良吉当選 |
1920年10月1日 | 第1回国勢調査、網走町の人口27,899人、5,329世帯 | |
1920年 | この年、東条貞『網走新聞』創刊(3年間で廃刊) | |
大正10年(1921) | 1921年4月1日 | 網走町大字網走村の1部及び大字最寄村の1部を分離して女満別分村 |
1921年 | この年の秋、文人大町桂月來遊。また、大字最寄村(川向)町有地の街路・区画の測量開始 | |
大正11年(1922) | 1922年4月 | 庁立網走中学校(網走尋常高等小学校内)・庁立網走高等女学校(旧私立北見女学校跡校舎)開校 |
1922年5月 | 北海道拓殖銀行網走派出所開設 | |
1922年7月16日 | 皇太子殿下(摂政宮、裕仁親王)ご来網、網走尋常高等小学校にご宿泊 | |
1922年8月21日 | 帝国水難救済会網走救護所発足 | |
1922年8月 | 網走支庁管内に水害、畑作など損害額400万円 | |
1922年9月29日 | 北見国沿岸で操業中のホタテ漁船、突然の暴風で300余隻遭難、水死者76人で史上最悪の海難事故 | |
1922年10月13日 | 網走監獄を網走刑務所と改める | |
1922年11月18日 | 網走中学校、ニクル(台町)に校舎新築 | |
1922年12月 | 網走町長に梶次郎就任 | |
1922年12月 | 釧網線敷設工事着工 | |
1922年 | この年、米村喜男衛原作「チパシリ」初演 | |
大正12年(1923) | 1923年4月1日 | 美幌村に1級町村制施行 |
1923年4月6日 | 網走町会、東条貞に都市計画調査委嘱 | |
1923年5月 | 網走神社、郷社に列格「北見国一之宮」と冠称 | |
大正13年(1924) | 1924年1月9日 | 俳人臼田亜浪来遊吟詠 |
1924年4月25日 | 網走湖でワカサギの人工孵化放流 | |
1924年8月10日 | 第8期道会議員選挙、野坂良吉・東条貞当選 | |
1924年10月13日 | 網走町長に松下賢之進就任 | |
1924年11月28日 | 網走高等女学校、大字最寄村に校舎新築 | |
1924年11月15日 | 釧網線網走~北浜間開通 | |
1924年 | この年、大字最寄村私有地の街路・区画変更確定。また、田辺村次ら共同出資の組合経営により、網走~常呂間の定期旅客輸送をはじめる(3年で廃業し網走自動車会社に引き継がれる) | |
大正14(1925) |
1925年4月 |
治安維持法公布(5月施行) |
1925年7月30日 | 網走町長に山内鉄蔵当選 | |
1925年9月17日 | 網走信用組合設立 | |
1925年9月1日 | 網走支庁長渡辺勘一、「天都山」を命名 | |
1925年11月10日 | 釧網線網走~斜里間開通 | |
1925年12月10日 | 網走支庁、大字最寄村に庁舎新築 | |
大正15年(1926) | 1926年 | 大字北見町などの旧町村名を廃し、市街地に条・丁目制施行 |
1926年4月1日 | 網走町立商業夜学校開校 | |
1926年4月 | 網走商工会設立(初代会頭中川国蔵) | |
1926年10月10日 | 歌人若山牧水夫妻来町し、網走中学校で講演、また二首を詠む | |
1926年 | この年、及川正七、貸切自動車の営業及び網走・常呂、同東藻琴間の定期旅客運送はじめる | |
昭和元年(1926) | 1926年12月25日 | 昭和と改元 この年、全道凶作網走支庁管内も不作 |
昭和2年(1927) | 1927年3月14日 | 網走中学校校舎焼失(3年に再建) |
1927年4月1日 | 北海道第2期拓殖計画施行(網走川などの治水事業費、網走~中湧別間の鉄道敷設費などが計上) | |
1927年12月 | 網走川に新橋架橋 この年、網走自動車会社設立 | |
昭和3年(1928) | 1928年2月20日 | 第16回(普通選挙第1回)衆議院議員総選挙、東条貞・野坂良吉が出馬(ともに落選) |
1928年2月26日 | 北見郷土研究会発足(11月『郷土研究』創刊) | |
1928年5月 | 木下八郎右衛門、網走川新橋下流右岸の埋立事業に着手(7年第2工区完成) | |
1928年5月 | 網走漁業組合、藻琴湖から網走湖へシジミ移殖 | |
1928年6月14日 | 網走川河口部及び網走橋下流部右岸の護岸・浚渫・埋立工事、町営で着工(4年完成) | |
1928年8月10日 | 第9期道会議員選挙、東条貞・野坂良吉ともに当選(野坂は12月失職、東条は5年辞職) | |
昭和4年(1929) | 1929年10月18日 | 道会議員補欠選挙、吉野恒三郎当選 |
1929年10月24日 | ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌はじまる | |
1929年11月 | 網走町役場庁舎、網走支庁跡地に新築 | |
1929年12月8日 | 道会議員補欠選挙、西村又吉当選 | |
1929年 | この年、網走商工会『網走名勝案内図』発行、また、網走神社社殿などの改築・造営着工(9年完成、同年8月県社に列格) | |
昭和5年(1930) | 1930年2月20日 | 第17回衆議院議員選挙で東条貞当選 |
1930年3月 | 網走港修築工事竣工 | |
1930年5月 | このころ、七福神めぐりはじまる(春秋2回年中行事となる) | |
1930年5月24日 | 道会議員補欠選挙、貴田国平当選 | |
1930年5月31日 | 普通選挙第1回町会議員選挙 | |
1930年6月3日 | 北見鉄道会社、止別~小清水間開業 | |
1930年10月2日 | 網走町会、停車場の移転問題で紛糾 | |
1930年 | この年、世界恐慌日本に波及、大不況つづく | |
昭和6年(1931) | 1931年3月31日 | 国立公園法公布(4月施行) |
1931年8月1日 | 網走町と女満別村の境界変更施行 | |
1931年9月18日 | 満州事変勃発 | |
1931年9月20日 | 釧網線全通 | |
1931年 | この年、日本捕鯨会社(のち日本水産捕鯨部)、築港工場跡に事業場開設、沿岸捕鯨再開。また、4月から8月にかけて低温つづき、全道で大凶作(8年を除き連続凶作となる) | |
昭和7年(1932) | 1932年2月20日 | 第18回衆議院総選挙、東条貞辞退 |
1932年8月10日 | 第10期道会議員選挙、吉野恒三郎・林弥八当選 | |
1932年10月1日 | 石北線全通 | |
1932年1月 | 網走地方初のアスファルト舗装道路、網走駅(旧浜網走駅)前から中通西1丁目まで施工 | |
1932年12月1日 | 網走駅、クルマトマナイ(現新町)の新築駅舎に移転開業(旧駅舎は貨物専用の浜網走駅となる) | |
1932年 | この年、日照り、低温、りん雨、水害とつづき、未曾有の凶作となる | |
昭和8年(1933) | 1933年4月 | 網走自動車商会設立、新網走駅~松井旅館間の定期乗合自動車運行 |
1933年10月25日 | 米村喜男衛『北見郷土史話』発刊 | |
1933年1月 | 荻野秋太『網走新聞』創刊(4年間で廃刊) | |
昭和9年(1934) | 1934年5月5日 | 道会議員補欠選挙、貴田国平当選 |
1934年5月 | 網走橋架け替え(網走支庁管内初の永久橋) | |
1934年12月 | 網走消防本部庁舎落成 | |
1934年 | この年、農作物不作、とくに水稲・豆類の被害甚大 | |
昭和10年(1935) | 1935年4月13日 | 網走漁菜市場で初の魚霊祭 |
1935年8月 | 網走青年訓練所を青年学校と改める | |
1935年10月11日 | 藻琴~東藻琴間に殖民軌道運行 | |
1935年11月 | 桂ヶ岡に北見郷土館建設着工、設計田上義也 | |
1935年12月24日 | 文部省、網走町桂ヶ岡砦阯(チャシ)を史蹟に指定 | |
1935年 | この年、低温がちのうえ豪雨のため水害、凶作となる。 | |
1935年 | 網走観光協会設立 | |
昭和11年(1936) | 1936年2月10日 | 第19回衆議院総選挙、東条貞当選 |
1936年2月26日 | 陸軍青年将校決起、首相官邸襲撃(2.26事件) | |
1936年2月 |
知床硫黄山の火山活動活発化、大量の硫黄を再噴出(12年から日本特殊鉱業が採掘) | |
1936年4月1日 | 網走町経済更生計画樹立、実施に移す | |
1936年5月 | 町営網走観光ホテル落成、委託経営で開業 | |
1936年6月19日 | 網走地方で皆既日食観測 | |
1936年10月1日 | 宮内庁、網走町東網走青年団・嘉多山女子青年団に小倉侍従差遣 | |
1936年10月10日 | 湧網東線(網走~常呂間)開通、西線(中湧別~中佐呂間間)は17日開通 | |
1936年11月3日 | 社団法人北見教育会、網走町に北見郷土館開設 | |
1936年12月16日 | 文部省、網走町最寄貝塚を史蹟指定 | |
1936年 | この年、網走湖を中心とする景勝地一帯を道立公園とする運動はじまる | |
昭和12年(1937) | 1937年4月30日 | 第20回臨時総選挙、東条貞当選(13年無効判決) |
1937年5月10日 | 網走町教育研究会『網走町小学郷土読本』発刊 | |
1937年7月7日 | 日中戦争(日華事変)勃発 | |
1937年 | この年、常呂郡留辺蘂町イトムカで水銀鉱発見(14年野村鉱業が着業) | |
昭和13年(1938) | 1938年2月6日 | 網走町長に大橋千次郎就任 |
1938年2月20日 | 網走町の字名・字界・地番・南北条・東西丁目を一斉改正 | |
1938年4月1日 | 国家総動員法公布(5月施行) | |
1938年8月 | 網走専門店会設立 | |
1938年10月20日 | 文部省、天都山を名勝地に指定 | |
1938年10月23日 | 網走招魂社造営、臨時祭典執行 | |
1938年11月12日 | 衆議院補欠選挙、東条貞当選 | |
昭和14年(1939) | 1939年2月 | 町営網走観光ホテル、田辺村次に経営委託(5月「山水閣ホテル」と改める) |
1939年4月1日 | 女満別村に1級町村制施行 | |
1939年4月 | 字東藻琴地区の分村調書網走支庁に提出 | |
1939年4月 | 網走警防団及び銃後奉公会発足、青年学校義務制 | |
1939年5月20日 | 網走商工青年連盟結成 | |
1939年9月3日 | 第2次世界大戦勃発(英・仏、対独宣戦布告) | |
1939年 | この年、7月から8月にかけて網走支庁管内に豪雨、被害甚大。また、網走川網走橋下流右岸中間部にコンクリート護岸工事施工(15年完成)。さらに網走川網走橋上流右岸の護岸及び治水工事着工(16年まで1部完 成) |
|
昭和15年(1940) | 1940年2月 | 鱒浦の藤野家農場、小作人に開放決定(18年開放完了) |
1940年3月22日 | 紀元2600年記念事業として網走町紋章公募制定 | |
1940年7月 | 米の配給に通帳制実施、成人1日の割当量2合3勺、欠配つづきで代用食増 | |
1940年8月10日 | 12期道会議員選挙、林好次当選 | |
1940年9月1日 | 北見郷土館で北見開拓史料展開催 | |
1940年11月10日 | 紀元2600年奉祝式典、網走支庁管内でも盛大に挙行 | |
1940年12月 | 網走商業組合設立 | |
昭和16年(1941) | 1941年1月 | 町内会・部落会発足 |
1941年3月1日 | 国民学校令公布(4月1日から小学校を国民学校と改める) | |
1941年4月11日 | 網走国民学校焼失 | |
1941年12月8日 | 第2次世界大戦拡大、日本、対米・英両国に宣戦布告(大東亜戦争勃発) | |
1941年 | この年、6月降雹、9月水害、冷害凶作となる | |
昭和17年(1942) | 1942年2月1日 | 衣料切符制実施 |
1942年4月30日 | 第21回総選挙、東条貞当選 | |
1942年5月26日 | 下湧別海岸で漂着機雷爆発、死傷者167名の大惨事 | |
1942年6月5日 | 網走町長に有末三郎就任 | |
1942年6月10日 | 常呂郡野付牛町を廃し北見市施行 | |
1942年10月15日 | 網走町役場東藻琴出張所開庁 | |
1942年1月 | 台町に防空監視哨設置(19年北浜・卯原内にも設置) | |
1942年11月1日 | 『網走新報』など道内12紙統合『北海道新聞』となる | |
1942年12月28日 | 網走国民学校再建落成 | |
1942年12月 | 中央映画劇場開業 | |
昭和18年(1943) | 1943年4月9日 | 防空警報改正、町内伝達方法を徹底 |
1943年8月8日 | 南5西3の1区画を全半焼する大火 | |
1943年11月 | 東日本造船網走工場で戦時標準型木造輸送船建造 | |
昭和19年(1944) | 1944年3月5日 | 貸座敷・料理店・カフェーなど一斉休業 |
1944年5月1日 | 網走町国民健康保険組合業務開始 | |
1944年6月8日 | 網走町総合防空訓練実施(大詔奉戴日の訓練恒常化) | |
1944年7月 | 家庭用防空壕づくり指導及び灯火管制の徹底、警防団員による見回り強化 | |
1944年10月15日 | 北連網走厚生病院開院式挙行 | |
1944年11月 | 北見航空工業会社設立、木製模擬戦闘機(零戦)製造 | |
昭和20年(1945) | 1945年1月20日 | 大本営、本土決戦計画を決定 |
1945年2月11日 | 米英ソのヤルタ協定(対日処理に関する秘密協定)成立 | |
1945年3月6日 | 国民勤労動員令公布 | |
1945年3月10日 | B29東京を大空襲(23万戸焼失、死傷12万、罹災者100余万人) | |
1945年3月17日 | 硫黄島の日本軍玉砕 | |
1945年3月18日 | 閣議、決戦教育措置要綱を決定(国民学校初等科以外の学校授業を4月から1年間停止) | |
1945年4月1日 | 米軍、沖縄本島に上陸開始 | |
1945年4月5日 | ソ連、日ソ中立条約不延長を通告 | |
1945年4月5日 | 小磯内閣総辞職、7日鈴木貫太郎内閣発足 | |
1945年4月21日 | 北海道庁長官に熊谷憲一就任 | |
1945年4月28日 | ムソリーニ処刑される | |
1945年4月30日 | ヒトラー独総統自殺 | |
1945年5月8日 | ドイツ無条件降伏 | |
1945年5月9日 | 政府、太平洋戦争完遂を声明 | |
1945年5月22日 | 戦時教育令公布(全学校・職場に学徒隊結成) | |
1945年5月 | 網走中央青果市場設立 | |
1945年6月10日 | 北海道地方総監府設置 | |
1945年6月13日 | 大政翼賛会及び傘下諸団体解散 | |
1945年6月21日 | 沖縄の地上部隊全滅 | |
1945年6月23日 | 国民義勇兵役公布(男子15~60歳・女子17~40歳に適用) | |
1945年6月26日 | B29はじめて北海道上空に侵入 | |
1945年6月2日 | 網走町自家用塩製造推進本部設置 | |
1945年7月2日 | 網走町助役白石武臣退職 | |
1945年7月11日 | 主食の配給2合1勺となる(1割減) | |
1945年7月14日 | 米機、函館・室蘭・帯広・釧路・根室を空襲 | |
1945年7月15日 | 米機、ふたたび函館・小樽・室蘭・釧路・旭川・帯広・網走を空襲(網走地方の犠牲者14名) | |
1945年7月26日 | ポツダム宣言(無条件降伏・植民地放棄)を発表 | |
1945年8月5日 | 網走町助役に大島光雄就任 | |
1945年8月6日 | 広島に原子爆弾投下 | |
1945年8月8日 | ソ連、対日宣戦布告(9日北満・北鮮・樺太に進撃開始) | |
1945年8月9日 | 長崎に原子爆弾投下 | |
1945年8月14日 | 御前会議、ポツダム宣言受託を決定 | |
1945年8月15日 | 天皇陛下、正午「終戦の大詔」を録音放送 | |
1945年8月15日 | 網走神社の祭典午後から中止 | |
戦後 | 1945年8月15日 | 鈴木内閣総辞職、17日東久邇稔彦内閣発足 |
1945年8月20日 | 灯火管制解除 | |
1945年8月22日 | 樺太からの引揚船3隻、留萌沖で国籍不明の潜水艦により撃沈、死者1,708人 | |
1945年8月22日 | ラジオの天気予報復活 | |
1945年8月25日 | ソ連軍、全樺太に進撃、内路で停戦協定成立 | |
1945年8月28日 | 言論・集会・結社等臨時取締法廃止 | |
1945年9月2日 | ミズリー艦上で降伏文書に調印 | |
1945年9月2日 | 連合軍総指令部(GHQ)設置、総司令官マッカーサー元帥 | |
1945年9月2日 | ソ連軍、千島列島を占領 | |
1945年10月4日 | GHQ、治安維持法廃止、政治犯即時釈放、特高警察廃止、天皇制批判の自由を指令 | |
1945年10月4日 | 連合軍、北海道へ進駐、札幌市にGHQ道民事部設置(15日までに網走町にも進駐) | |
1945年10月5日 | 東久邇内閣総辞職、9日幣原喜重郎内閣発足 | |
1945年10月10日 | 宮本顕治、網走刑務所から出所 | |
1945年10月11日 | GHQ、男女同権、労働組合結成を奨励、教育の自由主義化、専制政治からの解放、経済民主化の5大改革を示唆 | |
1945年10月24日 | 国連憲章、20ヵ国の批准完了で発効し国際連合正式に発足 | |
1945年10月27日 | 北海道庁長官に持永義夫就任 | |
1945年10月29日 | 日本勧業銀行、第1回宝くじ売出し(1等10万円・副賞綿キャラコ2反) | |
1945年11月1日 | 全国人口調査実施(国内総人口7,199万6,477人) | |
1945年11月1日 | 網走町人口35,465人 | |
1945年11月2日 | 日本社会党結党、書記長片山哲 | |
1945年11月9日 | 日本自由党結党、総裁鳩山一郎 | |
1945年11月16日 | 日本進歩党結党、総裁町田忠治 | |
1945.11.ー | 網走婦人会発足(会長有末弥恵子) | |
1945年12月1日 | 復員省発足 | |
1945年12月1日 | 日本社会党札幌支部結成 | |
1945年12月15日 | 網走町長有末三郎退職 | |
1945年12月17日 | 衆議院議員選挙法改正公布(婦人参政、大選挙区、制限連記、選挙権年齢20歳) | |
1945年12月17日 | 日本自由党札幌支部結成 | |
1945年12月18日 | 日本協同党結成、委員長山本実彦 | |
1945年12月22日 | 労働組合法公布(21年3月1日施行) | |
1945年12月31日 | GHQ、修身・日本歴史および地理の授業停止を指令 | |
昭和21年(1946) | 1946年1月1日 | 天皇、神格否定宣言 |
1946年1月4日 | GHQ、軍国主義者の公職追放、超国家主義団体の解散を指令 | |
1946年1月24日 | GHQ、公娼制度廃止を命令 | |
1946年1月24日 | 網走支庁長に若林次郎就任 | |
1946年2月1日 | 第1次農地改革実施 | |
1946年2月9日 | 日本農民組合結成 | |
1946年2月13日 | 網走文化協会 第1回公演 | |
1946年2月17日 | 食糧緊急措置令(主食供出に対する強権発動を規定)公布 | |
1946年2月17日 | 金融緊急措置令執行、預貯金封鎖、旧円を新円と交換 | |
1946年2月22日 | ソ連、千島・南樺太のハバロフスク地方編入を布告 | |
1946年3月17日 | 網走町長選挙、有末三郎当選 | |
1946年3月31日 | 北海道第2期拓殖計画終了 | |
1946年4月10日 | 新選挙法による第22回衆議院総選挙(自由141・進歩94・社会93・協同14・共産5・諸派38・無所属81(うち婦人39)、本道は2区制、第2区当選者飯田義茂・永井勝太郎・坂東幸太郎・本名武・森三樹二・左田鉄太郎・松本六太郎・武田信之助・伊藤郷一 | |
1946年4月22日 | 幣原内閣総辞職 | |
1946年5月1日 | 第17回メーデー、11年ぶりに復活 | |
1946年5月3日 | 極東軍事裁判開廷 | |
1946年5月22日 | 第1次吉田茂内閣発足 | |
1946年6月13日 | 政府社会秩序保持・食糧危機突破・生産管理否認に関する声明発表 | |
1946年6月29日 | GHQ、地理授業再開を許可(10月12日、日本史も) | |
1946年7月1日 | 北海道総合開発委員会設置 | |
1946年7月4日 | 人工甘味ズルチン販売許可 | |
1946年7月5日 | 文部省、市町村に公民館設置を通達 | |
1946年7月30日 | 文化研究誌「オホーツク」創刊 | |
1946年8月1日 | 日本労働組合同盟第1回全国大会 | |
1946年8月1日 | 遠軽町から丸瀬布村・白滝村分村 | |
1946年8月10日 | 北見放送局、放送開始 | |
1946年8月12日 | 経済安定本部・物価庁発足 | |
1946年8月13日 | 北海道産業別労働組合会議(道産別)結成 | |
1946年8月16日 | 経済団体連合会(経団連)創立 | |
1946年9月9日 | 生活保護法公布、10月1日施行 | |
1946年9月10日 | 津別村に町制施行 | |
1946年9月27日 | 労働関係調整法公布 | |
1946年9月27日 | 市町村制改正公布(首長公選、選挙権拡大、リコール制など)、10月5日施行 | |
1946年10月8日 | 網走町会、議長に白井仁太郎、副議長に宮津恂太郎を選任 北海道地方費法・北海道会法廃止 | |
1946年10月15日 | 網走町振興促進会結成、会長有末三郎 | |
1946年10月21日 | 第2次農地改革諸法令公布 | |
1946年10月21日 | 自作農創設特別措置法公布(道内農地改革はじまる) | |
1946年11月1日 | 主食配給2合5勺に増配 | |
1946年11月1日 | 第1回国民体育大会、京都・大阪を中心に開催 | |
1946年11月3日 | 日本国憲法公布、22年5月3日施行 | |
1946年11月6日 | 網走商工会議所設立総会開く(会頭田辺村次)、設立認可22年2月14日 | |
1946年11月8日 | 政府、追放基準要項を発表(追放範囲を地方公職に拡大) | |
1946年11月13日 | 北見酒精工場全焼 | |
1946年11月16日 | 政府、当用漢字表(1,850字)及び現代かなづかいを告示 | |
1946年11月20日 | 網走町長有末三郎退職 | |
1946年11月29日 | 網走支庁長に安井博恵就任 | |
1946年11月30日 | 網走刑務所文芸誌『樹氷林』創刊 | |
1946年12月5日 | 樺太引揚第1船、函館に入港 | |
1946年12月8日 | シベリア引揚げ第1船、舞鶴に入港 | |
1946年12月13日 | 網走町会、市制施行上申を議決 | |
1946年12月25日 | 網走町、市制施行上申書を提出 | |
1946年12月25日 | 総合文芸誌『くさむら』創刊 |